「損をしなかったのは」
このことで,得をする人はいないだろう。変化が生じないのだから。
しかしながら,
このような数々の対立の発生源である 彼ら が一番「損をしない」ことについては
どうかと思います。
※ ブログというしくみの有効性については認識しました,この件において。
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Commentaires
間接的に向けられてるだけで,
「それはそれで,仕方ない」らしいし,
黙して語らずという選択肢もありだけど。
1)善悪は論じていない。損得の問題。
そう,まさに「利害」について。
2)私自身の資産価値(あるとすれば)を「減じる」方向に事態は動いた。
あるいは得られると期待した価値が得られない。すなわち損した気分。
そのような方向づけを与えた 彼ら 側には損がない。
それが愉快でない,という気分。「どうかと思う」。それだけ。
3)あえて具体名でなく, 彼ら としている理由。
この問題に限らず,利害関係の生じる事柄はおうおうにして,
自分(自分たち)にとってどうなのか,を
まずは考えるだろう。
だから読む人によって 彼ら をどう取るかは異なる(はず)。
4) 彼ら を二通り以上に読むだけの思考能力があるならば,それは構造的視点が一応あるんじゃない?
けっこう。
で,それが,何か?
皆が「もう少し構造的な視点があったら」,なんらかのケリがつく/ついていたんですか。保助看法の後進性が改善されれば解決ですか?
もう少し,動的システム論的な視点があってもいいかも。単に視点や法律が「悪い」,じゃなくて。
Rédigé par: mochi | 29 juil. 2005 15:18