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18 sept. 2006

きょうの「おことば」

科学の裏付けなく実践のみに夢中になる者は、
舵も羅針盤もない船に乗り込み、何処に行く
やら確かでない船頭のようなものだ。

            -レオナルド・ダ・ヴィンチ

宮本省三『リハビリテーション・ルネサンス-心と身体の回復 認知運動療法の挑戦
(春秋社,2006,p. 84)

 *

「戦闘的な」本です。
久しぶりに,読んでいるこちらの気持ちが高ぶるというか。

「裏切られた期待」に応えるために は,
リハビリテーションという世界に固有の問題とはとても思えない。

途中--いま4章。

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Commentaires

とても、気になるオコトバです!!

『科学の裏付け』と『実践』および現場でのお互いの『実感』が

しっかりと実線でつなげられる時…

患者もしくは、当事者にとっては

羅針盤を持つ安心感と船頭さんへの信頼感を

持っていけるような気がします…

そんな、不安な航海とて、漕ぎ出さずにはいられない…
状況にあるとしたら…

まったくの素人がナマイキなことを申し上げましたが

先生の読後のご意見ご感想を、楽しみにしております。

Rédigé par: 風待人 | 19 sept. 2006 09:17

風待人さん
コメントありがとうございます。
だいぶ長くなってしまうのですが。
うまくお伝えできるかどうか。

いろんな願い・望み・期待があると思います。それらは「目的地」です。
もちろん,漕ぎ出さずにはいられない状況です;漕ぎ出さないという選択肢は,ありません。
さて,どうするか。

この本はリハビリテーションについて書かれています。
運動麻痺の患者さんが熱心にリハビリテーションを受ける,そこにはどんな「期待」があるでしょうか。
「運動機能回復」でしょう。

でも実際には,期待するほどに運動機能回復がみられない方も大勢いらっしゃるわけです。
そのようなとき,リハビリテーションの目標は可能な限りの「日常生活自立」「社会復帰」となります。
それはリハビリテーション「思想」に基づく理念,社会福祉モデルに基づく,正当な目標設定と言えるでしょう。

著者はそこに,問題提起をしています。
患者さん自身の「期待」は運動機能回復にあるはずなのに,いつのまにか目標自体がすり替えられ,
期待は「裏切られてしまって」いるのではないか,と。
そうではなく,まさにその期待に応えるべく,それを自らの責務としようと。
それがリハビリテーション専門家なのだと。
...期待したようになったときにはじめて「実感」が得られるのではないですか。
そして,
『実践は常に正しい理論の上に構築されなければならない』
その理論とは,当然ながら,科学的な知見によって裏付けられていなければなりません。
これはおとぎ話ではないのだから。

(まだ途中で,本文中にそう書いてあるかどうかわかりませんが)
舵とは技術で,羅針盤とは理論,科学でしょう。


私が共鳴し,「おことば」として記録しておこうと思ったのは以上のような点です。

私は「リハビリテーション専門家」ではない(関係はあると思いますが)のでこの本を少々傍観者的に読めますが,
同じようなことは,
「高次脳機能障害支援」や「認知症支援」や「特別支援教育」や「心理療法とかカウンセリング」の多くや,
それ以外のことにも
【そっくりそのまま当てはまるのではないか】と,思うところがあります。

 *

さて,それでは私自身はどうか。

専門家のはしくれとして,研究者のはしくれとして
(たぶん現状では私は,実践家のはしくれとはみなされないでしょうから),
理論やそれを裏付ける科学的理解の増進に,
私は貢献したいのです。

私は,
(科学→理論)→実践
というのは厳密に順序立ったものであり,
 科学や理論のない実践(実践あるのみ)とか,
 実践のなかから理論を生み出す(矢印逆)とか,
 科学と実践の同時並列とか,
上手に考えられないんです。

科学と実践と実感が実線でつながる瞬間。
それは望ましい姿だとは思います。
でも今のところ
私自身には経験もありませんし,
私自身には簡単には考えられません。

Rédigé par: mochi | 19 sept. 2006 17:18

OTである私には、非常に胸に刺さる言葉ですね。

科学的なベースがあって実践があるというのは最早国策レベルで言われていることで、
リハビリテーションに係る診療報酬がPT、OT、ST問わず十把一絡げにされたのはまさにその証拠といえます。

要するに、リハビリテーションの科学性は希薄ですよ、と宣告されたも同然です。

ですから、私たちは臨床家でありながら、研究家でもなければならないんですね、本来は。

わかってはいるんですが、それを両立するのは凡人の私には果てしなく難しく感じます。

それはさておき、認知運動療法。

私たちセラピストの間でも賛否両論です。
というよりも、方法論によって派閥が分かれているというのが正確かもしれません。

確かに中枢神経疾患の患者さんが求めるのは「運動機能回復」ですが、
何よりもその背景にある患者さん自身の生活を回復することが目標だと思います。

特に脳卒中患者の場合、痙性麻痺の回復には個人差があり、多くの場合が実用的な機能回復には至りません。

諦めさせるわけではありませんが、回復の見込みがないのに機能回復訓練をひたすら続けるのか。
それとも新しい生活スタイルを提供しつつ、麻痺肢のケアをするのか。

私たちが日々思い悩んでいる課題です。

確かに、表向きは感謝の言葉を述べながら、
裏では「期待を裏切られた」という思いを抱いている方もいたのかもしれません。
そう考えると、我々の存在意義について考えさせられます。

認知運動療法にしてもその他の手技にしても、
即時的効果は認められても般化できないことも多く、
結局は患者さん個々の要因を加味して様々な手技や方法(時には道具)を組合せ、
治療ストラテジーを構築する、っていうのが今のスタンダードのような気がします。

そんな中でリハビリテーション実践の科学性をいかにして示すか。
一生涯の宿題ですね。どこまでできるかはわかりませんが。

長々と駄文を書き連ねて申し訳ありません。
ただ、臨床家として(ちょっと研究に足を突っ込み始めたものとして)、
一言コメントしたくて生意気なことを言ってみました。

ちなみに個人的には認知運動療法、嫌いではないです。

Rédigé par: OTパパ | 20 sept. 2006 14:08

自分はもともと「失行症」や「前頭葉性行為障害」の研究で身を立ててきたところがあり
...今はだいぶ違うところや"別世界"に,首や手や足をつっこんでいますが...
身体やその動作・行為ということに関して,人並み以上に関心を持っています。

(読書はやっと6章に入り,まだ全貌は不明ですが)
認知過程への治療的介入,脳の認知過程を活性化させていくことによって
運動の認知的制御機構を再組織化しようという,認知運動療法的な考え方には
そんなわけでひいき目に見てしまうというか,気を引かれるところがあります。

現場ではいろいろなご苦労や工夫があるんだろうと思いますし,患者さんも心から感謝されているのだろうと思います。

> 諦めさせるわけではありませんが、回復の見込みがないのに機能回復訓練をひたすら続けるのか。
> それとも新しい生活スタイルを提供しつつ、麻痺肢のケアをするのか。

という,目標の選択肢が存在しない究極の理想的な未来像は,
「回復の見込める訓練」を施すことではありませんか?
その可能性を探ること自体が,十分に科学的な行いになると思います。
そのときに科学性を求めるとするならば,
きちんとした知見の/理論に基づいていること(ただやってみるというのではなく;事前の科学性),
アウトカムの評価をきっちりすること
(ただやってみましたというのではなく;事後の科学性),
などになるのだと思います。
そんな可能性を,患者さんと共に探ることができるといいなあと思います。
それは,研究者としてというよりも,
脳卒中→片麻痺残存という親族を持つ立場からの「願い」かもしれません。

私の方こそ生意気を言ってすいません。

Rédigé par: m0ch1 | 24 sept. 2006 00:48

何も考えず、勝手放題書いてしまって申し訳ありません。

私の意見は、mochiさんへの共感であり、現場への憤りと捉えていただければ幸いです。

多くの現場で、リハビリテーションが惰性で成させているという現実は否めません。

私自身がいま取り組んでいるのは、回復期脳卒中患者のアウトカム研究です。

疾患の特性上、平均値で扱うことはできないので、何を基準にカテゴライズするかがポイントになりそうです。

もちろんこの研究の目的は、「結果からどのような治療法略を練るか」にあります。

ですので、これから数年かけて、実践と再検証の繰り返しになるかと思います。

純粋な臨床家としての立場を捨ててまで始めたことなので、
患者様や家族の思いに応えられる研究ができたらと思っています。

そんな訳で、このblogに紹介されている文献は非常に役立っているので、
今後も足を運ばせていただきます。

私自身は何も還元できるものがないので、
利用しっぱなしっていうのは非常に申し訳ない気もしますが、ご容赦ください。

Rédigé par: OTパパ | 25 sept. 2006 10:14

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