『書き印す』の意味合い/事実・現実・真実
ひっかかったところはこの2点だ。
ひとつめ。
ふつう かきしるす と入れると
まずは 書き記す と変換されるかなあと思って。
記すことと印すことの相違は,
私のイメージでは,
前者はすらすらと,後者は刻印・「刻み込む」だ。
その場ではそこに込められているかもしれないニュアンスは明らかにできなかったのだが,
この本★の13章「かく」の最後にちょろっと書かれていたぞ。孫引き。こちらに書きしるされているらしい。
「治療の場は、具体的な人間としてのクライエントと治療者の二人の場である。
しかし、そこに、二人の具体的な人間を越えた〈他者(l'autre)〉の場への
開けが生じない限り、二人の関係は想像的な結合にとどまり続ける。
『書き印す』行為とは、この〈他者〉にその場を譲ることである」
→わかったようなわからないような文章であるが,
要するにおそらく,「見られる」ための書く行為,ということになるのだろうか。
私の開陳した意見にひきつければ,
少なくとも「その最中に書き留める」ことは,見られてもよいことだけにしましょう,
いつでも見せられるように,ということだ。
*
さてもうひとつ。
ディスカッション中に出てきた,「あとで記録を」書く際に生じる意識について。
「その最中に書き留められていた」ことは,書き留められているという事実がそこにある。
でも,すべてを書き留められるわけじゃなから,
振り返るときには必然的に,その書かれた事柄と事柄の隙間を埋める作業が必要になる。
また,セッションとセッションの間を埋めないと,「流れ」はとらえられない。
そうすると,現実的にそこで起こっていたことを後から書く際には必ず
再構成する,ということになるのだから,
どこかまでは事実であり,どこかからはフィクショナルになることはむしろ当然,ということになる。
現実は構成的だ。
そして,なにがしかの真実があるかもしれないけど,
それが一意とは限らない/一意とも限らない,と思ってしまえば,
結局のところ,書かれていることは「客観的」事実であるけれど,
100%の客観的な現実や真実など,
とりわけそのシチュエーションにおいては「ありえない」
ことになるんだろうな。
*
★ そういう本だって手元にあるのだよふふふ。意外でしょうけれど。
「動詞」は好きなんで。
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